生きてた

生存&ダイエット報告と、若干の考察やひとりごと

キズモノとして生きるということ

この記事を読んだが…

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「障害があっても希望を持って生きている人がいる」的な話をマスコミなんかで目にする。

そういう意味では、音楽という趣味もある。野球観戦も好きだ。大切に思えるパートナーもいる。収入面でもそこまで困ってはいないのだから、外面としてはそれなりに充実している部類だろう。

しかし正直、生きることに未練はない。

 

「しかし正直、生きることに未練はない」
この言葉が…すごく突き刺さった。

 

いや、全く同じじゃないよ?

だけど、めちゃくちゃわかるんだよ…この気持ち。

 

お前ら健常者に「傷を負って生きる」虚しさがわかるか?

というのは、数ある精神疾患の中でも、統合失調症双極性障害(躁鬱病)は「2大精神疾患」とよく言われる。

両者に共通するのは「完治」という概念がないことだ。投薬などで症状を抑え込み「寛解状態」として普通の生活のようなものができるようになっても、治療そのものは生涯にわたって継続しなければならない。意味合いが全く違うのである。

 

かくいう私も躁うつ病でね…

昔に比べると生活する上での支障はなくなったが…一生付き合っていかないといけない「傷」を負ってしまったことには変わりはない。

 

…つまり、「キズモノ」になってしまったわけだ。

 

そうなると何が厄介かと言うと…

 

「6割の力で生活をすること」。

冒頭の記事では、医師からこんな事を言われたらしいが…そんな事言われなくたって、

10割の力を出せなくはないが、出せる分野は限られてしまったし、10割の力を出そうとすると周りとのコミュニケーションが上手くいかなくなる

のが、ここ数ヶ月でよくわかった。

 

今年は2つほど限界を超えたのだが…失ったものも大きかった。

 

キズモノが10割の力を出すということ。

1つ目は、登山だ。

久しぶりの登山では高尾山を登るのにバテバテになるほど酷かった。
それをソロ登山で練習して、やっと「低山ぐらいなら一人で登れる」と言い切れる実力をつけた。

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しかし私は、山道を20キロ歩いた経験がない。
そのため、半年の登山の総決算として登った「陣馬山〜高尾山を縦走登山」では、私だけはものすごく気が立ってて、ネガティブだった。

 

3人で登ったのだが…

時間通り来た人に「遅い」と何度もぼやくわ、

ここ数年のネガティブがあふれ出て、愚痴り倒してる姿には自分でも「今日の俺やなやつだなぁ〜」と思って、案の定それは後々尾を引くことになるし…

高尾山は夜でもライトがついてることを理由に、夜なのにロープーウェイに乗るのを渋って若干ごねるし…

 

もちろん、私の言い分も一理ある。
ネガティブだって、その時の私はかなり真剣に悩んでいたテーマだ。

 

しかし、その日の私はあまりにも感情的になっていて…

「いつもならこんなに神経質に人を怒ったり、人にわがままになったりしない。だけど、今日は誰かがミスをしたら負けるかもしれないんだから、もうちょっと本気でやってくれ…」

みたいな気持ちが、自分を嫌なやつにしていたし、空気を悪くしていた。

 

アレだけの準備をし、10割の力を出した以上、敗北は許されない。
というプレッシャーが、周りを見えなくしていた。

 

別に20キロ歩けなくたっていいはずだし、
趣味の登山なんだから元気な時にまたリベンジすれば良いことなのだが…

「今日は全部歩ききらないと負けだ」

という気持ちが出すぎた。
結果、折角の休日に3人で集まって登山をするのに、すごく嫌なやつになった。

 

2つ目はダイエットなのだが、これについては…

「登山で汗だくになった時に、近づきたくないほど臭かった」

みたいな話をされた。

めちゃくちゃ傷ついたのと同時に、その日がぼくの【誕生日】だったこともあって

「誕生日にそういう話をしてるってことは、ダイエットを始めるチャンスだと思って言ってくれてるんだな」

とおもって…傷つく言葉もぼくを挑発するためにわざと言ってることにして、ダイエットを始めた。

 

結果的に、今日までに最大で14.5キロ痩せた。

 

周りの応援もあって、毎日1500kcal以内に押さえながら20日目ぐらいまでは何でもありなチートデイも作らないで、ダイエット食しか食べない生活を続けた。

 

しかし、ある人との小競り合いをして…脳の血管がキレそうなぐらいの頭痛と自暴自棄に襲われて…夜中なのに、スマホも持たずに17キロも歩きにいった。

「深夜の国道で人の悪口をブツブツ言ってるデブの存在」
は職質レベルにうさんくさかったと思う。

だが、家にいると発狂して叫びだしそうだったんだ。(※幸いなことに職質は受けてない)

 

ここではその人を責めることが目的ではない。

そもそも言いたいのはその人への不平不満ではない。

 

ただ、私が冷静だったら
脊髄反射でブチ切れる前に相手の意図を確認したかもしれないし、

・その後、小競り合いや体調不良をこじらせることもなかったかもしれない。

 

言いたいのは、

目的遂行に一直線になりすぎて、予期せぬトラブルや傷ついた時のためのバッファーゾーンも全部ダイエットに注ぎ込んでいた

ということだ。

 

過程なんか関係ない。ここで負けてしまったら全部ダメになってしまうかもしれない

というプレッシャーが、今度は自分に降り注いで…ぶっ壊れた。

しかも一人でぶっ壊れるならまだしも、他の人に心配や迷惑をかけて話をややこしくしてしまった。

 

今年は「本気を出せる」ぐらいまで心も体が回復したものの…いざ本気を出すと、強すぎる強迫観念が出て、周囲との軋轢が生まれてしまう。

 

結果的に、成果を出す過程や目的を達成した瞬間は周りも褒めてくれるが…

後から人間関係がギスギスして、むしろ今までで一番孤独を感じている。

 

いや、別にぼっちには慣れてる。
正直ぼっちの方が周りに気を使わないで生きられるから楽でいい。

 

でも、「本気10割出した人の孤独」ってそういうことじゃないんだ。

自分でも自分がめんどくさいくて嫌なやつになってることに気づくし、
結果を出すまで自分も他人も止まることはできないし、
少しでも妥協したら高校受験に落ちた時に「過程を全く無視して受験に落ちたことをヒステリー起こす母親」のことを思い出して…【100点じゃないと誰も認めてくれない】という気持ちが強くなってしまう。

 

…だから、目標を決めて努力し始めた途端に、友達が減っても文句の言えないほどストイックになって戦わないといけない「呪い」を背負うんだよ。

それをしないと人生がマイナスの状態で虚しさの中で朽ちていくことになる。

 

その悲しさが「傷を負い、道を外れた者」の人生なのよ。

 

本気を出す以前にもうキズモノ。しかもクソジジイ

躁うつ病になった時点で?
発達障害だと発覚した時点で?
色んなパーソナリティ障害が疑われるような行動がちらついた時点で?

私は社会的に見たら「キズモノ」だし、34歳なんて雇用市場では若年扱いされない「クソジジイ」だ

 

おまけに、躁うつ病になってから、勉強や読書をする能力が格段に落ちてるから資格をとって仕事につくことも難しい。
学生時代はADHDの性質を抑えて、本を読んだり、勉強したりできたが…躁鬱病になってから、思考が散乱してしまうと本や問題に淡々と向き合えなくなってしまった。

…そんな状態で資格の取得?なんていくら私の才能を持ってしても無理だ。

 

「パパゲーノ」と呼ばれる人たちがいる。

 

死にたい思いを抱えながらも、さまざまな事情で生きている人たちのことだ。

言い換えれば「生きる」「死ぬ」という2つの選択肢のなかで、積極的かそうでないかは別として「生きる」という方の選択肢をとりあえず選んで命を繋いでいる人たちだ。

だから、今の私は、「パパゲーノ」的な虚しさを抱えながら日々生きてる。

 

努力もできる。結果もそこそこ出せる。
趣味にものめり込んでて、今を楽しく生きてる。
あまりにもネガティブ過ぎて信じてもらえないかもしれない。
けど、俺は作品を楽しんだり山に登ったり野球見たり…毎日を楽しんでるんだぜ?

 

だが、自分の置かれた立場や歩んできた人生を思うと虚しくなる時もあって、
「このままじゃダメだ」
みたいに気持ちと
「今更何ができる?今までもダメだったのに」
という気持ちに板挟みになることがけっこうあるんだよ。

 

だってさ?
今から成り上がれる分野は限られてるし、正規ルートでは世間は34歳以上のクソジジイとして扱われるし、積み上げたモノだってあんまりないから…将来有望な若者を選ぶだろう。

 

例えば、ダイエットをがんばって体重を平均ぐらいまで落としたとして…マイナスがゼロになっただけ。

 

例えば、今やってるブログや創作で一山当てたとして、お金のないクソジジイが、金のある独身貴族ジジイになるだけだ。
すごそうに聞こえるけど、趣味に少しのめりこめるようになるだけで、人々からは相変わらず【躁うつ病発達障害のめんどくさくてかわいそうなやつ】って思われる処はあんまり変わらないんだぜ?

 

まして、私だって人の子だし、愛国者だし、何よりも私自身が「種を保存したい」という本能を持った生き物だから…その望みが薄くなった状況をひっくり返せない現状はツラい。

 

ネット調べでは、
恋愛市場は20代しか参加資格はなく、
結婚市場は30以上のあまりものは地雷かクセモノとして扱われる。

(クセモノであることには否定しないが、お願いする立場で結婚するとなれば、その恩を向こう何十年相手に着せられることになる…その状態で続けていけるのだろうか?)

 

まだ、
「楽しい趣味人を独身貴族にクラスチェンジさせることはできるかもしれない」
という選択肢は少しだけ残ってるが…もう私には【真っ当な人生】なんてものはよほどの豪運に恵まれないと、つかみとれないだろう。

 

病気や障害と付き合っていく・そこに気づいてしまった人間は大なり小なりこの虚しさと向き合って生きてる。

 

それが「キズモノとして生きるということ」なんだ。

 

同情するなら金をくれよ。
同情だけされたって、俺の人生はなんにも良くならない!

 

はてなブックマークを稼いだら、空から女の子降ってくるなら俺だってもうちょっとブログがんばるさ。

でもさぁ…降ってこねぇ以上、「同情するなら金をくれ」としか言えねぇのよ…。

 

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